僕は基本的に「お弁当」が嫌い。余計なものが多く入っていて、そのほとんどは一品一品がまずいから。それとわけわからないものが入っていて最後の最後までいったいこの食材は何だったんだろうと正体不明のものもある。なぜあれほど多くの料理を一つの箱に入れなければならないのか。
☆本当に美味しいものはたった一種類で十分☆
他に箸が行ってしまうということは、その料理がそこまで美味しくないから。
巷で、特に駅で売っているお弁当とは弱いものばかりを多数集めて、贅沢感を感じさせているだけのごまかしにすぎない。
「弁当」とは携帯できることを前提とした一つの食べ方にすぎない。近くにレストランや食堂があるのに、わざわざ弁当を食べる必要など無い。揚げ物は揚げたてが美味しいに決まっているし、他の食材もその料理に適した温度であることに越したことは無い。
多くの料理をコンパクトにまとめて一つの箱に詰めるとき、ある種の犠牲が生じる。それらの料理は少しずつ詰められて一つになった然るべき「理由」がなければならない。しかし多くの場合、その「理由」とは、「携帯できること」しかない。
移動中でもないのに人に弁当を提供することは、ある意味失礼なことでもある。「食事は簡易的に済ませてね」と言われているような感じも受ける。
ところが、人によっては、数多くの料理を一度に提供されるというのはある種の「贅沢感」を味わえるということになっているらしい。また、料理の味付けが極端に甘いのは、かつて戦時中、砂糖が不足していた時代に甘いものを食べることこそ贅沢なことという流行が未だに残っているかららしい。人形町の某有名店の親子丼は、味付けが甘過ぎて食べられたものではない。しかしそれがよしとされている。甘い味付けこそ贅沢だとされている。
目を覚まして冷静に味わったとき、多くの食材や料理を一度の食事で食べる必要は無いし、味付けも甘いものは要らないことが解るのは、普通に「美味いもの」を食べてみればそう難しいことではない。
故にお弁当は滅多に買わないのだけれど、仙台駅で牛タン弁当を買わない手は無い。シンプルで、焼きたての牛タンと麦飯。青唐辛子の漬け物。これだけで十分なのだ。
しかし駅弁ではなく、駅に入っている牛タン専門店で弁当を作ってもらうのがベスト。新幹線の改札口、3階には牛タンストリートというレストラン街があって、仙台を代表する(味の面ではなく店舗の多さという意味)牛タン屋が4軒ほど入っている。
我々地元の人(僕もかつては)の多くは「喜助」が最もシンプルで美味しい、、、と思っている。そこで買った弁当は結局、麦飯、牛タン、青唐辛子の味噌漬けの3種類しか入ってない。しかしこれが文句無く美味しい。
変わって、Dという店は、色々なものを弁当に入れる。何かよくわからない甘いものとか、味噌を紫蘇で巻いたものとか。肝心の牛タンは脂っこく変に柔らかい=美味しくない。
この二つの店の牛タンお持ち帰り用弁当はどちらも1300円くらいするけど、味には雲泥の差がある。Dの弁当ははっきり言うと2度と食べたくないもの。一方「喜助」の弁当は毎回買いたいと思う。
仙台駅に立ち寄ることがあればご参考まで。
PR